大阪にスリーダイヤの神社(とことんサーチ)

三菱発祥の地 信仰今も 問屋街近くに土佐藩邸 岩崎弥太郎 事業拠点に

スリーダイヤの装飾が施された土佐稲荷神社の屋根(大阪市西区)

大阪市西区にある土佐稲荷神社は、神紋に三菱を象徴するスリーダイヤのマークを使っている。屋根の飾りや賽銭(さいせん)箱、灯籠のほか、社務所で販売するお守りにまでスリーダイヤが確認できる。大阪と強く結びついてきた住友グループに対し、三菱グループといえば東京のイメージが強い。いったいどういう関係なのか。三菱と大阪の知られざる関係を調べた。

長堀通と新なにわ筋が交わる鰹(かつお)座橋の西南すぐにある土佐稲荷神社を訪ねた。圧巻なのは、境内を囲む石柱である玉垣。三菱銀行、三菱商事、三菱重工業に始まり、キリンビールや日本郵船、旭硝子など、日本経済を支える三菱グループの主な企業名が刻まれた柱が30以上も並ぶ。こんな神社が他にあるだろうか。

神社の案内によると、江戸期、神社を含む一帯は土佐藩邸と蔵屋敷が占めた。藩主の山内家は1710年、京都の伏見稲荷から分祀(ぶんし)し、藩の守護神とする神社を開いたという。三菱の創始者、岩崎弥太郎は幕末、土佐藩に仕えた。そうした経緯で三菱もこの神社とかかわるようになったのだろう。

まずは東京にある三菱グループの企業で作る広報組織、三菱広報委員会に問い合わせた。すると、返ってきたのは「大阪の土佐稲荷神社こそが三菱発祥の地です」との明快な答え。それによると、弥太郎は1869年ごろ、土佐藩邸の責任者となった後、藩の借金を肩代わりするという条件で藩邸と蔵屋敷を下げ渡された。弥太郎はこの場所を拠点に事業を起こし、それが後の三菱財閥につながった。もちろん神社も受け継ぎ、三菱の守護神とした。

弥太郎は1874年に本拠地を東京に移し、大阪の敷地は大阪市に譲渡した。だが、土佐稲荷神社はその後も守護神であり続けた。境内には弥太郎の弟の弥之助が寄進した青銅のこま犬があり、銘文が刻まれている。

岩崎弥太郎(手前左から2人目)と三菱幹部(三菱史料館蔵)

現在、土佐稲荷神社が神紋にスリーダイヤを用いているのはそうした経緯からだ。その後、神社は独立した宗教法人になり、「現在は三菱とは公的な関係はない」(同神社)というが、「今でもグループ企業の役員や社員が参拝に訪れることがよくあります」(三菱広報委員会)とのこと。現在まで信仰は生きているのだ。

それにしても、なぜ土佐藩はこの場所に大阪の拠点を置いたのか。藩邸や蔵屋敷といえば、もっと北側にある中之島や堂島が主流だったはずだが……。これについて、大阪の歴史に詳しい大阪市史編纂(さん)所長の堀田暁生さんは「土佐藩の主要産業だった材木とカツオ節が大きく関係しているのでは」と指摘する。

お守りにもマークが使用されている

言うまでもなく江戸期の大阪は日本経済の中心だった。全国から集まった材木とカツオ節が取引されたのが当時の長堀川の両岸だった。土佐からの人や物資を乗せた船が大阪湾から木津川を上り、長堀橋まで入ってきていたという。カツオ節問屋の密集地に架かる橋は鰹座橋と呼ばれた。長堀川が埋め立てられ、長堀通となった後も名前だけは残った。

また、長堀通とあみだ池筋が交わる白髪橋は土佐から船で運ばれてきた材木が降ろされた場所で、その名称は土佐の材木の産地、白髪山から来ている。江戸期の白髪橋は白髪山の材木で架橋されたとも伝わっている。

江戸期、材木とカツオ節が土佐藩の経済力を支え、幕末には薩摩や長州と並ぶ雄藩として土佐を飛躍させ、明治維新を経て三菱グループをも生み出した。三菱発祥の地に輝くいくつものスリーダイヤが、大阪と三菱の深いかかわりを今に伝えている。

(大阪・文化担当 田村広済)

アプリで開く

今なら有料会員限定記事もすべて無料で読み放題
お試し登録は11/20まで