世代交代論を唱える

「政界のドン」金丸信 (4)

政客列伝 特別編集委員・安藤俊裕

金丸信らが心血を注いだ田中角栄内閣は1974年(昭和49年)7月の参議院選挙で大きくつまずいた。自民党は空前の「金権選挙」を展開したが、結果は不振だった。選挙直後の7月12日、田中首相の政治手法を批判して副総理・環境庁長官の三木武夫が辞任した。続いて蔵相・福田赳夫も辞任して三木とともに反主流派に転じた。この時、行管庁長官の保利茂は福田に辞任を思いとどまるよう説得したが、福田は保利の「ここで田中に協力すれば次はキミだ」との説得を振り切って三木と行動を共にした。

保利議長(上)と金丸議運委員長

これに追い打ちをかけたのが雑誌「文芸春秋」の田中金脈と越山会・佐藤昭に関する記事である。これで田中首相はすっかり弱気になり、ついに退陣に追い込まれた。田中は後継首班に椎名悦三郎副総裁を望んだ。保利茂も椎名を推した。しかし、自民党内に反対論があり、椎名は健康上の理由で後継首班を固辞した。大平正芳は田中派の支援を当て込んで総裁公選実施を主張した。これに対して福田赳夫と三木武夫は話し合い調整を主張し、公選実施ならこれをボイコットする構えを見せた。

後継選びは椎名副総裁を調整役に福田、大平、三木、中曽根康弘の実力者会談に委ねられた。このうち中曽根は後継候補から下りて椎名の補佐役となった。椎名は後継候補を福田、大平、三木の3人としたが、それ以外にも保利、衆議院議長の前尾繁三郎、タカ派の長老・灘尾弘吉の可能性も探っていた。この時、金丸は保利政権をめざして田中派内の根回し工作を展開していた。昭和49年12月1日、椎名副総裁は後継総裁に三木武夫を指名した。

椎名裁定は保利にとっても金丸にとっても意外だった。この日の早朝、金丸は保利側近の坪川信三、田中派の田村元とともにヒルトンホテルの保利の事務所にいた。金丸は坪川を難詰した。「保利を頼むと言っておきながら側近のあなたはちっとも動いてないじゃないか」。坪川は「保利先生から動くなと厳命されていたので」と弁解したが、金丸は「保利先生が動けと言うはずがない。先生に言われなくても動くのが側近の務めだろう」とまくし立てた。保利は下を向きながら黙って聞いていた。

保利に大福一本化迫る

金丸は三木内閣で国土庁長官となった。三木首相と「生みの親」の椎名副総裁は折り合いが悪く、三木内閣は不安定だった。1976年(昭和51年)7月、ロッキード事件で田中角栄が逮捕されると、自民党内は「三木降ろし」が吹き荒れた。田中派が中心となり、福田派、大平派、中間派を結集して「挙党体制確立協議会」(挙党協)が結成され、党長老の保利茂と船田中が代表になった。挙党協の数の力を背景に福田副総理と大平蔵相が2人そろって三木首相に辞任を迫ったが、三木は拒否した。

三木の後は福田がやるのか、大平なのか、その調整がついていなかった。三木はその足元を見透かしたように驚異的な粘り腰を発揮していた。この情勢を見て金丸は保利に後継総裁となるよう勧めたが、保利は「自分は器ではない」と固辞した。「それなら福田しかいないじゃないですか」と畳みかけると「あれはダメだ。福田には愛想が尽きた。オレは福田の将来に二度と手を貸さないと決めたんだ」と素っ気なかった。田中内閣の末期に福田が保利の説得を振り切って閣僚辞任して以来、福田と保利の関係はこじれていた。

福田赳夫(左)と金丸信

それでも金丸は「福田しかいない」と保利を口説き続けた。最後は保利も「キミに任せる。白紙委任状を渡す」と折れた。そこで金丸は福田に対して「すぐ目黒の保利先生の家に行ってほしい。謝るべきところは謝って、手を握らないと、あなたの時代は来ませんよ」と勧めた。福田は「どうもありがとう」と応じたが、いっこうに福田が保利と会ったという話が伝わってこない。金丸が「福田先生、何をしているんですか」と促すと「実はね。敷居が高くてね」と福田はもじもじしていた。金丸は「人の言うことをまともに聞けないなら、私はもうあなたを相手にしない。行くのか、行かないのか」と声を荒らげた。しばらくして福田から金丸に電話があった。「ありがとう。行って良かったよ」。

保利が保証人、福田派の園田直、大平派の鈴木善幸が立会人となって「まず福田が2年、その後は大平」という大福一本化の密約ができて三木内閣は昭和51年12月の総選挙後に退陣、福田内閣ができた。保利は衆議院議長となり、金丸は補佐役の衆議院議院運営委員長になって、保利―金丸コンビで与野党伯仲国会の運営にあたった。1年後の福田改造内閣では防衛庁長官となり、3回目の入閣を果たした。

1978年(昭和53年)11月の総裁選挙で福田首相は密約に従わずに出馬した。大平幹事長は田中派の全面協力を得て党員参加の予備選挙を戦い抜き、福田首相に圧勝した。保利議長は大平の勝利を見届けた直後に議長を辞任し、間もなく死去した。大平内閣で金丸は3回目の国対委員長に就任した。この時の社会党の国対委員長は田辺誠である。以後、国会運営は金丸―田辺のラインで動いて行くことになる。金丸はすでに政界に確固たる地位を築きつつあった。議運・国対族の第一人者となり、建設・道路族、郵政族議員の大ボスであり、最大派閥・田中派の大幹部であった。

▼三木内閣から大平内閣までの主な歩み
1974年(昭和49年)
三木内閣で国土庁長官に
1976年(昭和51年)
衆議院議院運営委員長に。保利衆議院議長とコンビで与野党伯仲国会の運営にあたる
1977年(昭和52年)
福田改造内閣で防衛庁長官に
1978年(昭和53年)
大平内閣で3回目の国対委員長に

大平首相は昭和54年9月、解散・総選挙に打って出たが結果は過半数に届かず、福田派、三木派などは首相の退陣を求めて激しい党内抗争を展開した。選挙後の首相指名選挙では自民党から大平、福田の2人が立つ異常事態となり、かろうじて大平が首相に指名された。昭和55年5月には野党が提出した大平内閣不信任案に福田派、三木派が欠席して不信任案が可決され、史上初の衆参同日選挙に突入する事態となった。

このころから金丸は「世代交代論」を唱えるようになる。田中・大平と福田・三木の怨念(おんねん)による対立抗争を続けていたら、自民党は国民から見捨てられる。「政治を国民のものにするためには思い切った世代交代をはかる必要がある。いまの派閥の長はすべて退き、派閥解消をやらなければいかん。反主流も含めて私の考えに同調する仲間が50人ほどいる。私はこの人たちと選挙後、行動に移るつもりだ。世代交代の捨て石になる」と発言した。

グリーンカード制をつぶす

金丸の世代交代論は波紋を広げた。「田中角栄棚上げ」論と受け取られ、田中との関係が微妙になった。金丸の狙いは盟友の竹下登や同期当選組の安倍晋太郎を押し上げることであったが、三木派を継承しつつあった河本敏夫をまず世代交代の先頭に立てようとする思惑も見て取れた。寡黙だが度胸が据わっている河本を金丸は高く評価していた。

防衛庁長官時代の金丸信(右)=毎日新聞社提供

しかし、衆参同日選挙のさなかに大平首相が急死し、選挙では自民党が大勝した。党内は一転、融和機運が高まり、大平派の代貸し・鈴木善幸が田中角栄と福田赳夫の双方から支持されて後継首相になった。この根回しを主導したのは大平派幹部の田中六助である。金丸が唱えた世代交代論は後退を余儀なくされた。

鈴木内閣で金丸信は「グリーンカード」(少額貯蓄等利用者カード)潰しの荒業をやってのけた。この制度は大平内閣当時の昭和55年3月に導入され、少額貯蓄や郵便貯金の利子非課税制度の乱用・悪用を防ぎ、利子・配当所得の総合課税をめざして昭和59年1月から実施することになっていた。当時の竹下蔵相に頼まれ、国対委員長の金丸も気軽に引き受けて改正所得税法の成立に一肌ぬいだ。

その後、郵政省を中心に「郵便貯金が激減する」「日本人の貯蓄精神を損なう」などの巻き返しが強まり、金丸は郵政事業懇話会の会長として反対運動の先頭に立った。党内根回しに動き、反対議員318人の署名を集めて鈴木首相や自民党三役に廃止を迫った。この制度は結局、鈴木内閣で実施延期の方向が固まり、次の中曽根内閣で廃止となり、郵政族のボス・金丸信の政治力をまざまざと見せつける結果となった。=敬称略

(続く)

 主な参考文献
 金丸信著「私の履歴書 立ち技寝技」(88年日本経済新聞社)
 金丸信著「人は城・人は石垣・人は堀」(83年エール出版社)
 「人間金丸信の生涯」刊行記念会編著「人間金丸信の生涯」(09年山梨新報社制作)
 竹下登著「証言 保守政権」(91年読売新聞社)

※1枚目と2枚目の写真は「人間金丸信の生涯」より

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