漁業交渉で米国に挑んだ日

講和発効まで(37)

日米外交60年の瞬間 特別編集委員・伊奈久喜

占領後に向けた実務作業とは、外交面でいえば、サンフランシスコ条約署名国との様々な協定の取り扱いをめぐる交渉である。パリの国連総会で米ソが火花を散らした半日ほど前にあたる1951年11月8日(日本時間)、東京で2つの外交儀式があった。

「公海自由」を根拠に

1951年
12月24日
吉田首相がダレスに台湾の国民政府との講和を確約(「吉田書簡」)
1952年
1月18日
韓国、李承晩ラインを設定
2月15日第1次日韓正式会談始まる
2月28日日米行政協定に署名
4月28日対日講和条約、日米安全保障条約発効、日華平和条約署名(8月5日発効)
1953年
1月20日
アイゼンハワーが米大統領に就任。ダレスが国務長官に
10月2日池田勇人自由党政調会長が訪米。池田・ロバートソン会談
12月24日奄美群島返還の日米協定署名(25日発効)

ひとつは日本・オランダ間の貿易・金融協定であり、もうひとつは日本・パキスタン間の貿易計画だった。ともにこれまでの内容を延長する合意を確認する文書に署名したものだが、当然ながら、そこにはGHQ(連合国軍総司令部)が絡んでいた。

日蘭協定は講和条約発効後に新たな協定を締結するまでの現行協定を延長する内容であり、8日午前11時に井口貞夫外務次官とテッペマ駐日オランダ代表部首席がその旨を記した公文を交換した。実務的な儀式である。

ただし、今日の目からみれば、そのしつらえが面白い。

式の場所は総司令部であり、井口、テッペマ両氏の背後では、この物語ではおなじみのGHQのマーカット少将が見守っていた。テッペマ氏は大使と呼ばれていたが、正式には駐日オランダ代表部首席だった。

協定の内容は変わらないが、この日の公文交換に伴って協定に基づく日蘭間のオープンアカウント(清算勘定)の管理が12月1日からGHQから日本側に移ることになる。このため井口、テッペマ両氏のほかにGHQのバーンズ中佐が署名した。

日本・パキスタン間の貿易計画の貿易計画延長の署名式も、同様に、総司令部で行われた。署名者も日本、パキスタン、GHQの当局者だった。

日蘭協定、日パキスタン貿易計画は、ともにそれほどの政治性がなかったのだろう。

同じ8日、日本、米国、カナダ3カ国が参加した漁業会議が開かれた。こちらは外交儀式ではない。各国の利害がぶつかり合い、交渉の前途は多難とされた。

草葉は後に第5次吉田内閣の厚相で入閣した(左、「週刊20世紀」から」

日米加3カ国協議が注目されたのには2つの理由があった。

ひとつは漁業が3カ国にとって小さくない利益がかかる分野だったからである。特にヘリングトン米代表は「最高の科学的資料に基づいて漁業資源を保存するため過度の漁獲を統制し、かつ最大限の漁獲を維持して、人類のたんぱく資源を確保する保存計画の共同立案」を提案した。

外交的な表現を使っているが、公海における漁業規制を含みうる。日本にとってもカナダにとっても、簡単にはのめない。米提案に対して日本が投げかけたのが、公海における漁業の自由という国際法の原則だった。

草葉隆圓外務政務次官、西村熊雄条約局長らは、8日の参院条約委員会で、あたかも米国に対して語るように、「公海における漁業の自由は国際法上確立した原則であり、政府としてはあくまでこの建前に立って正当な協定を結ぶ方針である」と強調した。

草葉は参院議員でもともとは僧侶だった。欧米留学の経験もあり、サンフランシスコ講和会議にも出席した。のちに厚相(現在の厚生労働相)にもなった。

韓国、豪州などを意識

日本外交を対米追随外交とする見方が戦後一貫してある。占領下は無論のこと、1960年の改定後も含め、日米安全保障条約の構造からみて、それはやむを得ない面もあった。

しかし非安保の分野ではそうでもなかったのが草葉答弁からわかる。

漁業問題で日本はなぜ米国に挑んだのか。それはこの漁業交渉が注目されたふたつめの理由を語ることになる。

日米加3カ国の漁業協定は日本独立後に予想されるオーストラリア、フィリピン、インドネシア、韓国との協定のモデルとなると意識されていた。

米国との交渉と違い、これら諸国との交渉には、安全保障における「借り」の要素がない。だからこそ、米国への譲歩がこれら諸国に対する譲歩につながれば、日本の利益を損ねると考えられた。

韓国の李承晩大統領がいわゆる李承晩ラインを日本海、東シナ海に一方的に引くのは、草葉答弁から約70日後の1952年1月18日である。日本固有の領土である竹島がこれによって韓国に実効支配されるようになり、以後、日韓間の紛争の種になっているのは周知の通りである。

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