実験失敗…7度目の正直 私の課長時代 3月2日 ■花王の長谷部佳宏社長(60)は入社3年目で初めて部下を持った。 工学系の大学院を修了し、29歳で花王に入社しました。和歌山県の研究所で素材の基礎研究を担当していた3年目のとき、部下を持つことになりました。 花王の研究所で重視されるのは入社年次より研究歴です。徹底的に考え抜くタイプと、黙々と実験を繰り返すタイプ。年下の先輩2人とチームを組みました。 3人は洗濯用のり剤「キーピング」の改良を任さ 実験失敗…7度目の正直
鹿島社長 押味至一氏(下) 私の課長時代 2月23日 ■1991年、アクトシティ浜松(浜松市)の建設を担当する。 42歳のとき、入社時からの憧れだった超高層ビルの建設に関われることになりました。地上高213メートルのアクトシティ浜松です。当時の鹿島にとって最大の物件でした。別の現場で所長を経験していましたが、改めて勉強し直すつもりで鉄骨担当工事課長として挑戦することとなりました。 超高層ビルは通常、地下から最上階まで一続きの柱で支えます。しかしア 鹿島社長 押味至一氏(下)
鹿島社長 押味至一氏(上) 私の課長時代 2月16日 ■鹿島の押味至一社長(71)は映画に憧れて進路を決めた。 建設会社を選んだきっかけは、霞が関ビルの建設を描いた「超高層のあけぼの」という映画です。強い憧れを抱き、当時通っていた大学を辞めてしまったほどです。東京工業大学に入り直して建築を修め、霞が関ビルを施工した鹿島に入社しました。 横浜支店に配属され建築現場を担当していたある年のクリスマスイブ、生涯忘れられない事件が起きました。後輩と仕事をし 鹿島社長 押味至一氏(上)
協和キリン社長 宮本昌志氏(下) 私の課長時代 2月9日 ■腎疾患領域の医薬品戦略に携わる。 2001年にキリンビール(現キリンホールディングス)の医薬カンパニーでプロダクト企画担当を任されました。ITシステムなど研究環境を整える役目を離れ、医薬品をどう市場に投入すれば効果的なのか、研究の進捗を見ながら大所から戦略を練る立場です。 当時の屋台骨は米アムジェンと開発したバイオ医薬品の「エスポー」でした。透析患者に多くみられる腎性貧血の画期的な治療薬だと 協和キリン社長 宮本昌志氏(下)
協和キリン社長 宮本昌志氏(上) 私の課長時代 2月2日 ■大学院で薬学を学び、1985年にキリンビール(現キリンホールディングス)に入社した。 キリンは80年代前半に医薬品事業に本格参入したばかりでした。新興だからこそ先輩研究者とのしがらみが少なく、自分の思うように自由に研究ができるのではないか。そう期待して入社しました。 入社後すぐに担当したのが認知症など神経疾患の治療薬の開発です。薬のタネとなる化合物を探して実験を繰り返すのですが、これといった 協和キリン社長 宮本昌志氏(上)
高島屋社長 村田善郎氏(下) 私の課長時代 1月26日 ■帰国後、高島屋新宿店(東京・渋谷)の出店に携わる。 ドイツから帰国し、日本橋店(東京・中央)で特選洋食器の販売担当を約半年経験しました。そして1995年、当時計画が進んでいた新宿店の出店準備室に異動となります。各店からマネジャークラスの人材が集められ、96年10月の開業に向けて急ピッチで準備が進められていました。 新宿は都内屈指の激戦区です。新宿駅の1日の乗降客数は350万人を誇り、伊勢丹、 高島屋社長 村田善郎氏(下)
高島屋社長 村田善郎氏(上) 私の課長時代 1月19日 ■高島屋の村田善郎社長(59)の転機はドイツ赴任だった。 1985年に高島屋に入社し、日本橋店(東京・中央)の食品部門で輸入酒を担当しました。当時は婦人服などアパレル部門が花形で、食品はやっと「デパ地下」が広がり始めたころ。私自身は入社時から海外志向が強く、チャンスがあれば欧州などの小売業界を肌身で感じる仕事がしてみたいと思っていました。 機会が巡ってきたのは90年。ベルリンの壁の崩壊の後にド 高島屋社長 村田善郎氏(上)
富士フイルムHD社長 助野健児氏(下) 私の課長時代 12月29日 ■数々の社内プロジェクトに参加する。 1991年に英国から帰国するとき、上司に希望を聞かれ、「営業の仕事をしたい」と答えました。ただ蓋を開けると経理部だったので、肩を落としました。 経理業務の傍ら、様々なプロジェクトに関わりました。その1つが、95年に米イーストマン・コダックが米通商代表部(USTR)に提訴したことへの対応でした。コダックは、当社の排他的な商慣習が原因で日本の写真フィルム市場が 富士フイルムHD社長 助野健児氏(下)
富士フイルムHD社長 助野健児氏(上) 私の課長時代 12月22日 ■1985年、30歳のときに英国の現地法人に赴任する。 入社以来ずっと経理部で働いていました。英語が話せず海外とは縁がないのだろうなと思っていたとき、青天の霹靂(へきれき)がありました。上司が突然、英国駐在を告げたのです。赴任当初こそ苦労しましたが、徐々に耳が慣れ、英国人社員のヒソヒソ話も聞き取れるようになりました。 英国では代理店を通して写真フィルムやカメラ、ビデオテープなどを販売していました。 富士フイルムHD社長 助野健児氏(上)
三井化学社長 橋本修氏(下) 私の課長時代 12月15日 ■事業撤退交渉の矢面に立つ。 三井化学は2008年、プラズマパネルの材料である光学フィルター事業から撤退すると発表しました。100億円超を売り上げる情報電子関連材料の主力でしたが、プラズマ陣営が液晶陣営との規格争いに敗れ、事業継続が困難になっていたのです。 光学フィルターは当時、富山県で外部企業と共同生産していました。撤退する前には、費用の分担や200人の従業員の雇用問題をクリアする必要があり 三井化学社長 橋本修氏(下)