40年前の研修 大久保伸一 交遊抄 5月17日 茶道や剣道のように経営にも「道」があることを教えてくれた人がいる。日本経営道協会代表の市川覚峯さんだ。非常にパワフルで、独創性を生かして柔軟に状況の変化に対応する力がある。 初めて会ったのは40年ほど前だ。凸版印刷のパッケージ部門で「職場活性化活動」のアドバイザーとして招いた。通常、研修は内容が決まっているが、市川さんはメンバーの個性にあわせて内容や場の空気を変幻自在に操り、社員を巻き込みながら 40年前の研修 大久保伸一
果物の贈りもの 山本学 交遊抄 5月16日 「今年の出来は良さそうですよ」。年が明けると、エア・ウォーター顧問の福田健太郎さんから恒例の連絡が入る。早春の頃、和歌山から旬のかんきつ類が届く。福田さんが自ら手塩に掛ける果樹園で採れたものだ。そして桜の季節が終わる頃、今度は兵庫からかわいいサクランボが届く。第一稀元素化学工業取締役の大内公夫さんが自宅の庭で大切に育てたもの。いずれも我が家の食卓に彩りを添えてくれる。 出会いは福田さんが同業の化 果物の贈りもの 山本学
70歳の女子大生 富安陽子 交遊抄 5月14日 田村せい子さんは、梅花女子大学で私が教鞭(きょうべん)を取っていた時のゼミ生だ。少し変わっているのは、田村さんが67歳で大学に入学してきたということだろう。 "児童文学制作演習"という受け持ちの授業で初めて大学2年生の田村さんに会った時、私はクラスの中に社会人の聴講生が混じっているものと思い込んでしまったが、実はその時彼女は68歳の現役女子大生だったのである。制作の授業が始まると、一作品毎(ごと 70歳の女子大生 富安陽子
手作りの衛星機器 大橋隆哉 交遊抄 5月13日 東京大学名誉教授の牧島一夫さんは東大宇宙航空研究所で学生時代をともにした先輩だ。大学院修了後に英国で研究員をしていた僕を、東大助教授になった牧島さんが助手として迎え入れてくれた。 人工衛星「あすか」の打ち上げまで半年を切った1992年の秋、2人で夜遅くまで天体が出すX線を撮影する検出器の最終試験をしていた。弱い放射線を当てる時間のかかる実験で、ぼんやりと画面を眺めながら待っているとバラバラの画像 手作りの衛星機器 大橋隆哉
大言壮語 中谷一馬 交遊抄 5月12日 モバイルゲーム会社のgumiを創業した国光宏尚さんに出会ったのは21歳の時だ。「俺は21世紀を代表する世界一の経営者になるから、一馬も総理大臣くらいにはなって、世の中一緒に変えようぜ」。目を輝かせながら、とにかく大きな夢を語る人で、中卒から政治家を目指すと息巻いていた私と妙に馬が合った。 彼が「米国ではTwitterというのが流行(はや)ってんねん。日本でやったらうまくいくから一緒にやろう」と起 大言壮語 中谷一馬
鉄道マンの声 奥和登 交遊抄 5月11日 JR東日本クロスステーション社長の西野史尚君は大分県立中津南高校の同級生だ。合唱部に所属し、話題も豊富で常に集まりの中心にいる人だった。 2人とも東京の大学へ進学したが、同窓会で時々会う程度の間柄だった。急に距離が縮まったのは2011年の東日本大震災のときだ。被災した農漁業者の支援にあたっていた私は現地の職員から、JR東日本の仙台支社長が熱心に取り組んでいると聞いた。それが西野君で、東北復興のた 鉄道マンの声 奥和登
絶対に飲むな 小形明誠 交遊抄 5月10日 東京医科歯科大学の田中雄二郎学長は麻布中学・高校時代からの親友で、命の恩人だ。三菱商事に勤めていた1990年、まだ治療法が確立されていなかったC型肝炎にかかった僕の治療を引き受け、その後も健康を気遣ってくれている。 出会いは中1。クラスが同じで、一緒に下校するうちに親しくなった。いつもにこにこしていて聞き上手。お父上は政治家だったが、「医学を究める」と貫いた意志の強さは僕とは対照的だった。 大学 絶対に飲むな 小形明誠
欧州の母 森谷真理 交遊抄 5月7日 2008年、英国グラインドボーン音楽祭の終演後、一人のご婦人が急に話しかけてきた。「連絡先教えてちょうだい」。元教育者でジャーナリストでもあったポーリン・ダルゼルさん。私は前年、アイルランドのヴェロニカ・ダン国際声楽コンクールで第1位となった。当地に住むポーリンは、このときから私に注目していたらしい。勢いに押され連絡先を教えて以来、見守ってくれている。 「この歌劇場のオーディションを受けてみれば 欧州の母 森谷真理
患者目線で 山中竹春 交遊抄 5月6日 国立がん研究センター東病院長(千葉県柏市)の大津敦さんと一緒に働いたのは10年ほど前のことだ。当時、私はがん研究の計画立案やデータ分析に携わっていた。陣頭指揮をとる大津さんとは、ともに仕事に打ち込んだ。今でこそ東病院は屈指のがん治療実績をもつ専門施設として名高いが、長く国立がん研究センター中央病院(東京・中央)の「2軍」扱いだった。現在の世界的な地位を築き上げたのは大津さんの力によるところが大き 患者目線で 山中竹春
戻ってきたエース 小林至 交遊抄 5月5日 東大野球部時代のチームメートでライバルといえる存在だったのが、衆議院議員の階猛君だ。私たちの世代は六大学リーグで70連敗を経験し、2年から4年まで1勝もできずに卒業したのだが、入学当時は右投手の彼と左の僕が将来のエースとして期待されていた。 彼は2年で先発として神宮球場のマウンドを踏んだ。だが3年の春に肩を故障。投手として再起が望めない重症だった。階君はプライドの高い男だ。同期の私たちにも何も言 戻ってきたエース 小林至