早朝撮影 ジャズ・ピアニスト 山下洋輔 エッセー 11月28日 早朝6時前に小田原の海岸に行く。崖の上になんとガラスで作った舞台があり、そこで撮影をするという趣向だ。太陽が出る前の光をバックに撮りたいというのでこの時間になった。今年中に発売されるソロピアノ・アルバム「クワイエット・メモリーズ」のジャケット写真用だ。 黒いタキシードを着て舞台の上に立つ。光学ガラスを敷き詰めた舞台は水平線からの光に輝き、ひときわ目をひく芸術品になっている。その一帯には、他にも石 早朝撮影 ジャズ・ピアニスト 山下洋輔
杉本博司(30)オペラ座公演 杉本博司 私の履歴書 7月31日 2019年の春、私はパリのコレージュ・ド・フランスでの講演を頼まれた。フランスの知の殿堂と呼ばれ、ここでの講演依頼は学問の「上がり」を意味するらしい。私は自分の一生をまとめる意味で「L'Estro armonico」と題した講演をおこなった。ラテン語で調和の幻想と訳す。人類種は地球自然環境の中で発生した特殊な生命であり動物種である。人は自然の一部なのだ。そしてその発達は環境との調和の内に育まれて 杉本博司(30)オペラ座公演
杉本博司(29)ベルサイユ宮殿 杉本博司 私の履歴書 7月30日 フランスのべルサイユ宮殿では毎年1人のアーティストが選ばれ、個展を開催する。2018年は私に命が下った。問題はその広大さだ。私は大きさに大きさで対峙するのは得策ではないと考えた。巨大に対抗できるのは極小ではないかと逆説に打って出ることにした。場所も鏡の間のある本館ではなく、敷地の一番奥にあるトリアノン区域にした。プチ・トリアノン宮殿はルイ16世がマリー・アントワネットに贈り、革命までの月日を過ご 杉本博司(29)ベルサイユ宮殿
杉本博司(28)江之浦測候所 杉本博司 私の履歴書 7月29日 私はここ10年ほど、この人生をどのように閉じたものかを思案している。50代半ばまで、資産と呼べるほどのものは持てなかった。古美術商時代、骨董を買い、それはすぐに人手に渡り、現金はすぐに骨董に化けた。50代の後半に作品が高値で取引されるようになり、私にも多少の余裕ができた。しかし持ち慣れない金ほど危ないものはない。 私は下町の生まれで、元来江戸っ子を気取っている。宵越しの金は持たない主義を人生に当 杉本博司(28)江之浦測候所
杉本博司(27)巣鴨塚 杉本博司 私の履歴書 7月28日 私の太平洋戦争関連資料に新たな資料が加わった。私はこれを「板垣征四郎大将揮毫(きごう)帳写し」と名付けた。A級戦犯に指名された板垣が、巣鴨の獄中にあって、死を覚悟する戦犯全員に揮毫帳を回し、その胸の内を書くようにと求めたのだ。ほとんど無償で働いてくれている日本側弁護士に、お礼として、進呈しようという気持ちだったらしい。 東條英機は「一誠 萬艱ヲ排ス」、広田弘毅は「飛龍 天ニ在リ」、嶋田繁太郎は「 杉本博司(27)巣鴨塚
杉本博司(26)曽根崎心中 杉本博司 私の履歴書 7月27日 此(こ)の世のなごり。夜もなごり。死にに行く身をたとふれば あだしが原の道の霜。一足づつに消えて行く。夢の夢こそ哀れなれ。 この件(くだり)は「曽根崎心中」道行の冒頭。七五調の名文は日本人の耳に心地よく響き、一度聞くと忘れられない。近松門左衛門によるこの代表作は、世話物といわれ、今でいう週刊誌ネタのスキャンダル速報として、元禄16年(1703年)に初演された。京都にいた近松は、大阪でのお初、徳兵 杉本博司(26)曽根崎心中
杉本博司(25)戦争の遺物収集 杉本博司 私の履歴書 7月26日 2009年、思ってもみない賞が舞い込んだ。高松宮殿下記念世界文化賞だ。私は絵画、リチャード・ロングが彫刻、ザハ・ハディドが建築、アルフレート・ブレンデルが音楽、トム・ストッパードが演劇・映像部門の各受賞者だった。この賞には写真部門はない。私は自分の仕事が写真としてのみ評価されたのではないことをうれしく思った。 授賞式は常陸宮殿下から顕彰メダルが授与され、関連行事が数日続く。私は国際顧問の中曽根康 杉本博司(25)戦争の遺物収集
杉本博司(24)新素材研究所 杉本博司 私の履歴書 7月25日 建築と深く関わるようになったきっかけは、ロサンゼルス現代美術館からの依頼だった。1997年の時点で、20世紀の建築を俯瞰(ふかん)する大展覧会を開きたいので、名建築の写真を撮ってほしいというお願いだった。私は大型カメラを使い、焦点をボカすことによって、建築が建つ前の、建築家の脳内ビジョンが再現できるのではと考えた。ここでも写真を使って時間を逆行するのだ。 これを機に、世界中の建築を撮る旅に出た。 杉本博司(24)新素材研究所
杉本博司(23)文筆業 杉本博司 私の履歴書 7月24日 2002年、小学館の編集者、花塚久美子の訪問を受けた。当時、実験的な新興誌として立ち上がった「和楽」の初代編集長が私に連載の企画を申し入れてきたのだ。 「テーマはお任せします。毎月12枚ほどの文章をお書きください」。そう言われて狼狽(ろうばい)した。それまで自作の短い解説以外は、まとまった文章を書いたことはなかった。しかし、彼女は私が書けると思い込んでいる。さらにまずいことに、彼女は泣く子も黙る 杉本博司(23)文筆業
杉本博司(22)直島の護王神社 杉本博司 私の履歴書 7月23日 2002年、私は治験者となることを決めた。C型肝炎の新治療法がアメリカで開発されたのだ。おそらく小学生の時の予防接種の針の使い回しが原因でC型肝炎を発症していた。このままだと、肝硬変から肝癌(がん)へと進むと医者から言われていた。 私は10年ほどでお陀仏(だぶつ)、寿命は60歳、終わりが知れていれば人生設計もしやすいと強がっていた。そこへ新薬の話を医者から聞かされた。イリアナ・ソナベンドから紹介 杉本博司(22)直島の護王神社