松浦晃一郎(11)経済協力局長 松浦晃一郎 私の履歴書 8月11日 1988年7月外務省に戻り、経済協力局長に就任した。香港総領事の前に長年いた部署なので、古巣に戻った感じがしてうれしかった。 最初の大きな仕事は、8月の竹下登首相の訪中である。総額8100億円の第3次円借款の供与に加え、平和条約締結10周年を記念しての大規模な無償資金協力プロジェクトで合意する方針だった。 79年の大平正芳首相と84年の中曽根康弘首相の訪中を記念して、それぞれ中日友好医院と中日青 松浦晃一郎(11)経済協力局長
五百旗頭真(24)福田外交 五百旗頭真 私の履歴書 2月25日 2001年に楠田実氏が福田康夫官房長官を囲む会を立ち上げた。その何回目かの席で、楠田氏が倒れた。官房長官がすぐに携帯電話で虎の門病院への入院をアレンジした。私も同行し、病院のソファで初めて福田氏と2人で話した。状況ゆえか、身内の共感があった。 02年3月より1年間、私は2度目のハーバード大学研修に赴いた。それはG・W・ブッシュ政権がイラク戦争に向かう時期だった。政権の粗い強気が、ベトナム戦争に続 五百旗頭真(24)福田外交
五百旗頭真(17)楠田研究会 五百旗頭真 私の履歴書 2月18日 「国が何をしてくれるかを問うな。むしろ君が国のために何をできるかを問え」。若いケネディ大統領の言葉に、ためらっていたライシャワー教授は覚悟を決め、大使としてハル夫人と共に東京に赴いた。 大統領は母校ハーバード大学をはじめ全米の知性を政権に集めた。政策水準と国民への発信力を高めるためである。 同じことが日本にも必要ではないか。そう考えた人がいた。サンケイ新聞記者だった楠田実氏である。 地味で特ダネ 五百旗頭真(17)楠田研究会
楠田氏の熱意、交渉後押し 龍谷大准教授・中島琢磨氏(沖縄返還の功罪) 8月9日 ――日本政府はいつごろから沖縄返還に動いていたのでしょうか。 「講和条約の締結時から外務官僚は道筋だけはつけようと頑張り、米全権ダレスに『潜在主権』と言わせた。1960年の安保条約改定時に岸信介は同時に沖縄にも取り組んでいた」 ――なぜ佐藤栄作は沖縄に熱心だったのですか。 「首相就任直後に訪米して大統領のジョンソンに沖縄に行くと伝えた。慎重居士がどうしてという感じだ。首相秘書官になる楠田実たちの 楠田氏の熱意、交渉後押し 龍谷大准教授・中島琢磨氏(沖縄返還の功罪)