橋田壽賀子さんの「出し惜しみしない人生」 内館牧子 カバーストーリー 4月8日 「おしん」などのテレビドラマで知られる脚本家の橋田壽賀子さんが95歳で亡くなった。第1回の橋田賞受賞者でもある脚本家の内館牧子さんに思い出をつづってもらった。 NHK朝の連続テレビ小説「おしん」が、日本中を泣かせ、一大シンドロームになっていた最中のことである。同番組の岡本由紀子プロデューサーからお話があった。 「橋田先生の資料整理をお手伝いできる?」 もちろん、二つ返事でお受けした。私はまだ三菱重 橋田壽賀子さんの「出し惜しみしない人生」 内館牧子
「テレビの荒野を歩いた人たち」ペリー荻野さん 読書 8月15日 何にでも始まりはある。1953年2月、あるものが産声を上げた。NHKによる日本で初めてのテレビ本放送の開始だ。それは正解のない戦いの始まりでもあった。「自分が夢中で見て育ったテレビは誰がどのように切り開いてきたのか当事者の話を聞いてみたかった」と話す。 「渡る世間は鬼ばかり」で知られるTBSプロデューサーの石井ふく子と脚本家の橋田壽賀子、「北の国から」の演出家・杉田成道、4月に亡くなった俳優の久 「テレビの荒野を歩いた人たち」ペリー荻野さん
橋田壽賀子(30)2つの腕時計 橋田壽賀子 私の履歴書 5月31日 私には自伝的なドラマが2本ある。一つは1994(平成6)年10月から翌年9月まで放送されたNHK朝の連続テレビ小説「春よ、来い」だ。私が日本女子大に入るために上京し、脚本家になり夫が亡くなるまでの日々を描いている。松任谷由実さんの主題歌が印象的だった。 NHKからこのお話をいただいたとき、ためらいを覚えなかったわけではないが、私自身を書くのではなく自分が生きてきた時代をドラマにするのも悪くないと 橋田壽賀子(30)2つの腕時計
橋田壽賀子(29)移民物語 橋田壽賀子 私の履歴書 5月30日 「戦争と平和」を考えるとき、私には原風景がある。ほかでもない、愛媛県今治の漁師の長男でありながら家を出てソウルに渡った私の父だ。戦前、多くの日本人が中国大陸、南米、北米、南方の島々へ、移民として新天地を求めて渡海した。 彼らは血のにじむ苦労の末に生活の基盤を築くが、日本の敗戦によって辛酸をなめる。移民の歴史は戦前、戦後の日本を映す鏡でもある。いつか移民の物語を書きたいと考えていた。「おしん」でも 橋田壽賀子(29)移民物語
橋田壽賀子(28)忠臣蔵 橋田壽賀子 私の履歴書 5月29日 私はこれまで何度かテレビ局の節目にドラマの脚本を手がけてきた。1979(昭和54)年12月9日に放送された「女たちの忠臣蔵~いのち燃ゆる時~」はTBSの東芝日曜劇場1200回記念ドラマで、プロデューサーは石井ふく子さん。演出は私が脚本の売り込みに走り回っていたころから親しくしている鴨下信一さん。 忠臣蔵は何度もテレビドラマになっているから、新味を出さなければ見てもらえない。3人で知恵を絞った結果 橋田壽賀子(28)忠臣蔵
橋田壽賀子(27)「春日局」 橋田壽賀子 私の履歴書 5月28日 NHKの大河ドラマは日曜の夜、1年間放送される。1回が45分で年間50回ほどになる。構想に1年、執筆に1年。丸々2年ほど準備して放送にこぎ着ける。脚本家に取っては名誉でもあるけれど、骨身を削る大仕事だ。 私は1981(昭和56)年に「おんな太閤記」で大河デビューを果たした。86年に放送された「いのち」の執筆依頼を受けたのは84年のことではなかっただろうか。 毎年放送する大河ドラマは時代設定や登場 橋田壽賀子(27)「春日局」
橋田壽賀子(26)「渡鬼」 橋田壽賀子 私の履歴書 5月27日 「渡る世間は鬼ばかり」は「ドラマのTBS」の看板を背負って制作されたドラマだった。それ以前にNHKで「おんな太閤記」「いのち」「春日局」という3本の大河ドラマを書いていたから、TBSも私に民放版大河を書かせてみようと思ったようだ。ただ「渡鬼」には「橋田壽賀子ドラマ」という冠が付いた。 私は新聞をよく読む。中でも投書欄は欠かせない。ラジオの人生相談番組にも耳を澄ます。いまの日本人が、年代や境遇によ 橋田壽賀子(26)「渡鬼」
橋田壽賀子(25)財団設立 橋田壽賀子 私の履歴書 5月26日 私は夫の遺志である後進の育成を目的とした財団を設立することに決めた。3億円の基本財産が必要と教えられたが、相続した遺産は2億8000万円しかない。困っている私にプロデューサーの石井ふく子さんが提案した。「TBSで1年通しのドラマの脚本を書いてくれるなら、足りない分は借りてあげる」。渡りに船だった。 夫を亡くした悲しみを慰めようと、石井さんは私をシンガポールに誘ってくれた。ドラマの構成を練るという 橋田壽賀子(25)財団設立
橋田壽賀子(24)夫の遺志 橋田壽賀子 私の履歴書 5月25日 夫の岩崎嘉一(よしかず)、通称「かいち」が55歳になり、第1制作局専門職次長でTBSを定年退職したのは「おしん」の放送が終わって5カ月後の1984(昭和59)年8月31日のことだった。 夫は会社人間ではなく仕事人間だった。夫婦の間でも話題と言えばテレビや番組のことばかり。心からテレビの仕事を愛し、人生をささげるように打ち込んできた。 退職してから、夫は三番町のマンションを事務所に「岩崎企画」とい 橋田壽賀子(24)夫の遺志
橋田壽賀子(23)おしん症候群 橋田壽賀子 私の履歴書 5月24日 1983(昭和58)年4月に「おしん」の放送が始まると瞬く間に「オシンドローム(おしん症候群)」と呼ばれるブームが巻き起こり、私は正直戸惑った。 おしん役の小林綾子ちゃんの熱演もあって、NHKに届いた封書は数千通に上った。おしんへの同情や過去の自分と重ねる内容のものばかりだったという。要望に応えて7月には少女編36回分が再々放送された。 おしんの奉公先、山形県酒田市には団体がバスを連ねて押しかけ 橋田壽賀子(23)おしん症候群