連作・無季・口語…… 表現鍛えた俳句の「問い」 カバーストーリー 1月23日 高浜虚子とともに正岡子規門下の双璧と呼ばれた河東碧梧桐は、子規の死後、守旧派の虚子と袂(たもと)を分かち、俳句革新をさらに推し進めるべく、「新傾向俳句」を展開。実感重視の方向性は、当時の文壇の自然主義とも通い合う。〈曳かれる牛が辻でずつと見廻した秋空だ 碧梧桐〉〈空を歩む朗朗と月ひとり 荻原井泉水〉。定型から解放された口語の韻律は、自由律俳句の道を拓(ひら)いた。種田山頭火や尾崎放哉も、井泉水の 連作・無季・口語…… 表現鍛えた俳句の「問い」
伊集院静「ミチクサ先生」(229) 伊集院静「ミチクサ先生」 1月22日 小天(おあま)から戻ってしばらくして、前田家からミカンと乾椎茸(しいたけ)が届いた。 二月の紀元節は熊本も珍しく雪が降った。 伊集院静「ミチクサ先生」(229)
俳句は文学だ 水原秋櫻子が目指した主観と抒情の復権 カバーストーリー 1月9日 昭和初期に勃興した「新興俳句」は現代俳句に道を開く文芸運動だった。俳人の神野紗希氏がその歴史を解説する。 俳句と聞いて何を思い浮かべるだろう。桜や紅葉、四季折々の自然を詠む風流な趣味? 筆で短冊に一句したためる姿? テレビの添削番組も人気だが、先生も和装だ。季語と575の定型を固持する守旧派文芸の印象は、いまだ根強い。 しかし、実際の現代俳句は、和の伝統の範疇(はんちゅう)にとどまらない多様性を 俳句は文学だ 水原秋櫻子が目指した主観と抒情の復権
伊集院静「ミチクサ先生」(209) 伊集院静「ミチクサ先生」 1月1日 森戸は美しい海岸であった。 海水浴客もいたが、のんびりしているところがよかった。ボートを借りて鏡子を乗せてやった。鏡子は満面に笑みを浮かべている。 伊集院静「ミチクサ先生」(209)
伊集院静さんの連載小説「ミチクサ先生」11日に再開 伊集院静「ミチクサ先生」 カバーストーリー 11月6日 作者の病気療養のため、2月21日から休載していた連載小説「ミチクサ先生」(伊集院静作、福山小夜画)を、11月11日(159回)から再開します。 〈作者の言葉〉 今年の初めに緊急で入院し、手術、その後の安静の日々。そして退院。自宅の周りを散策できるようになり、桜の花がこれほど印象の強い花であったのかと感心しました。 同時にリハビリテーション病院にも通い、そこで同じ病いの人々を目にして、自分はつくづく 伊集院静さんの連載小説「ミチクサ先生」11日に再開
正岡子規 死の床でたどり着いた「生きる意味」とは The STYLE 8月14日 34年と11カ月。明治時代、短い生涯の間に俳句や短歌、文章表現の世界に革新をもたらした正岡子規は、当時、死に至る感染症だった脊椎カリエスに襲われ、寝たきりになる。死の1年前から書き始めた日記「仰臥漫録(ぎょうがまんろく)」などの行間からは、死が近づくにつれ、「暗」から「明」への死生観の変化が読み取れる。一体、何があったのだろう。 ■「暗」 あの世で古白が呼んでいる 日本が欧米諸国に追いつこうとして近 正岡子規 死の床でたどり着いた「生きる意味」とは
未知を生きる航海日記 俳人 神野紗希 エッセー 7月26日 やわらかい風の中へ繰り出す、小さくまるい虹色の光。4歳の息子にせがまれ、玄関先でしゃぼん玉を吹いていたのだ。そのとき、道行く人が眉をひそめて言った。「しゃぼん玉、やめてほしいわ。あの子がコロナだったら、うつるじゃない」。 新型コロナウイルス感染拡大防止のため、保育園も登園自粛。公園の遊具も感染リスクがあると禁止され、苦肉の策のしゃぼん玉だった。のどかな遊びとして春の季語に分類されるしゃぼん玉も、 未知を生きる航海日記 俳人 神野紗希
前衛の長距離走 歌人・岡井隆さんを悼む カバーストーリー 7月13日 前衛歌人の岡井隆が世を去った。九十二歳だった。大きな空虚が詩歌の世界を覆っている。我々は、その空虚を吹き払うことができるだろうか。前衛のスピリッツを継走できるだろうか。 岡井隆における前衛とは前衛短歌のみを指すのではない。短歌革新集団「アララギ」の継承、ライト・ヴァースの提唱、現代詩への越境、皇室との交流、それら全てが前衛なのである。 前衛短歌は、一九五〇年代から六〇年代にかけての文学運動である 前衛の長距離走 歌人・岡井隆さんを悼む
長引く将来への不透明感 経営者ブログ コラム(ビジネス) 7月7日 毎年のことだが、ほぼ同じ時期に株主総会を開催した。今年は、予想通り、客席はまばら、さしたる質問もなく、淡々と終了。こんな時期にもかかわらず、あえて出席を頂いたのだから、いろいろと質問を頂けたらと思うのだが、静かに終わってしまった。観客なしで、グラブで受けるボールの音、バットが球を捉える時の打球音だけが響く、静かな球場で、プロ野球は始まっているのだが、株主総会も、書類をめくる時に紙が立てる音が届く 長引く将来への不透明感
鶯谷(東京・台東) 子規が愛した風雅の里 ひと・まち探訪 コラム(社会・くらし) 生活 5月30日 夕暮れ時、JR鶯谷駅の南口改札を出てすぐの陸橋から街並みを見下ろす。一つまた一つとラブホテルのネオンサインに明かりが入っていく。背後には上野の山が広がり、徳川家の菩提寺である寛永寺など、多くの寺が立ち並ぶ。猥雑(わいざつ)と静寂。線路を隔てた2つの地域が対照的な雰囲気を醸し出す。 「鶯谷」とは、江戸時代に皇族出身の寛永寺住職が京都から多くのウグイスを取り寄せ、辺りに解き放ったことに由来する。「関 鶯谷(東京・台東) 子規が愛した風雅の里