ふるさとの匂い、タクシーに乗って 上野駅の年末年始 12月20日 夜のタクシー運転手はさまざまな大人たちに出会います。鉛筆画家の安住孝史(やすずみ・たかし)さん(83)も、そんな運転手のひとりでした。バックミラー越しのちょっとした仕草(しぐさ)や言葉をめぐる体験を、独自の画法で描いた風景とともに書き起こしてもらいます。(前回の記事は「タクシー客「我善坊へ」 昭和の五輪後も旧町名に愛着」) 今年も残り少なくなりました。子どもの頃は時がゆっくり流れましたが、年齢と共 ふるさとの匂い、タクシーに乗って 上野駅の年末年始
コロナ禍越えて次代につなげ操り人形の糸 カバーストーリー 10月29日 約20本の糸で、繊細かつ表情豊かな人形を生きているかのように表現してみせる。385年続く「江戸糸あやつり人形結城座」が今、断崖絶壁まで追い詰められている。「芸能なんて客が要らないといえば消えるもの」。ずっとそう考えてきたが、コロナ禍のせいで消えるのは耐えられない。次代につなぐため、できるだけのことにチャレンジするつもりだ。 結城座は現在、11月の公演に向けて準備の真っ最中。石川啄木の未完小説「雲 コロナ禍越えて次代につなげ操り人形の糸
50分間で1行、オンラインでは無理 東大寺学園の授業 10月4日 東京大学や京都大学に毎年、多数の合格者を輩出する東大寺学園中・高等学校(奈良市)。生徒たちの高い学力を支えているのは、型にとらわれない自由な校風と授業風景にあるようだ。教育ジャーナリストのおおたとしまさ氏が訪ねた。 >>(中)生徒の父、世界遺産で大宴会 東大寺学園の名物行事 ■生徒だけでなく教員も自由の体現者 東大寺学園中・高等学校は、奈良の大仏で有名な東大寺を経営母体とする男子校。東大・京大・国公 50分間で1行、オンラインでは無理 東大寺学園の授業
絵の具手作り、変わらない色を届けて3代100年 東京 カバーストーリー 7月6日 東京・銀座8丁目の雑居ビルの中に月光荘はある。創業は大正6年(1917年)。絵の具、絵筆、パレットからそれらを持ち運ぶバッグまですべてを自社で製造し販売する。100年を超える老舗は私で3代目となる。創業者は祖父の橋本兵蔵だ。もともと、絵が好きでたまらないから始めた店ではない。運命を変えたのは偶然の出会いだ。 祖父は富山で生まれ育ち、18歳で上京。郵便局員や運転手などをしながら暮らしていた。あると 絵の具手作り、変わらない色を届けて3代100年
競馬場・ウインズ発 啄木の足跡と歌碑を巡る旅 競馬実況アナ日記 6月20日 中央競馬の夏の北海道シリーズが始まった。北海道への移動は函館、札幌とも航空機が基本。夕方の便に乗れば、進行方向左側の窓から美しい夕陽を見ながらの飛行になる。函館につく頃には、市内の街並み、五稜郭、そして函館競馬場のコースやスタンド、パドックを眼下に見ながら空港へと降下することが多い。今年もこの景色を楽しみにしていた。 ところが、忙しさにかまけて航空便の予約が済んでいなかった5月初旬、新型コロナウ 競馬場・ウインズ発 啄木の足跡と歌碑を巡る旅
新入生物語 日本国際問題研究所理事長 佐々江賢一郎 エッセー 4月1日 4月になると若い新入生諸君は希望と不安の交錯する中で新しい一歩を踏み出す。 自分の新入生時代を振り返ると大抵不安の方が大きかった。高校進学の時は、初めて親元を離れ、広島でバンカラの気風の強い寮の生徒となった。「猛球に青春をかけろ」「故郷を想(おも)え」「校内に新風を吹き送れ」という寮訓の下でひ弱な精神が試され、夜枕に涙することが多かった。 初めて東京に旅行して大学に入ると、まず噂に聞いていた新宿 新入生物語 日本国際問題研究所理事長 佐々江賢一郎
石川啄木の縁で北海道函館・盛岡の両市教委が覚書 岩手 北海道 東北 2月13日 北海道函館市の教育委員会は15日、盛岡市教育委員会と友好交流覚書を結ぶ。明治の歌人・石川啄木は、現在は盛岡市になっている日戸村生まれ。函館で一時期 石川啄木の縁で北海道函館・盛岡の両市教委が覚書
胡堂と啄木 郷原宏著 読書 1月11日 実に面白く胸おどるような思いにさせる文学的評伝である。主人公の人格の形成を描く小説にビルドゥングスロマン(教養小説)があり、ゲーテやシラーなどのドイツ文学が有名だが、これは岩手県の盛岡の同じ中学で青春を過ごしたふたりの少年が、明治・大正という近代日本の疾風迅雷のなかで、文学者として成長していくところを描いている。事実は小説より奇なり、いや小説より面白い。 まずこのふたりの取り合わせである。「銭形 胡堂と啄木 郷原宏著
平民宰相の生家(写真でみる永田町) 写真でみる永田町 コラム(政治) 7月8日 参院選の選挙戦の取材に盛岡市内を訪れた折、大正時代に首相として初の本格的な政党内閣をつくった原敬の生家を見に行きました。 江戸時代、盛岡藩の家老だった原の祖父が増改築したものです。原はここで1856年に生まれ、15歳まで生活していました。親族は昭和の後期まで住んでいたそうです。 敷地全体は約180平方メートルで、現存するものは原が住んでいた当時の5分の1ほどだそうです。居間や次の間などが残ってお 平民宰相の生家(写真でみる永田町)
映画『菊とギロチン』 閉塞を突破する生の軌跡 7月7日 24歳の石川啄木が「時代閉塞の現状」を書いたのは明治43年(1910年)。国家権力によって青年たちの未来が圧殺されていると事実を述べたが、朝日新聞への掲載は拒否された。 本作『菊とギロチン』の物語は、その13年後(大正12年)に開幕する。閉塞させられた時代の壁に体当たりする青年と女性たちを描きだし、大正末期のデモクラシーの断末魔ともいうべき状況を物語る。まさに今に通じる力作だ。 時は関東大震災の 映画『菊とギロチン』 閉塞を突破する生の軌跡