安藤百福(1)即席めん人生 屋台の行列が道示す 苦労にめげず48歳の出発 3月24日 1958年(昭和33年)の春、私は無一文からの再起を期して即席めんの開発に没頭していた。理事長をしていた信用組合が倒産して、すべての財産を失った直後だった。唯一の財産として残った大阪府池田市の自宅の裏庭に粗末な小屋を建て、そこを研究室にあてた。丸1年、試行錯誤を繰り返した末に、ようやく完成のめどが立ったのだった。玄関先の桜の木が満開で、私の心と同じように華やいで見えた。 私が開発していたのは、お 安藤百福(1)即席めん人生
安藤百福(2)商売への興味 祖父の仕事見て学ぶ メリヤス販売創業し独立 3月27日 私が生まれた1910年(明治43年)は何かと騒がしい年だった。ハレーすい星が地球に接近するというので、パニックが起きていた。日本は韓国を「併合」して軍事大国の道を歩もうとしていた。幸徳秋水が大逆事件で逮捕された。歴史は激しく揺れ動き始めていた。 私が幼少期を過ごしたのは、台湾の台南県東石郡朴子街という町である。日本が台湾を領有してから15年たっていた。内地での騒々しい雰囲気も、さすがにこの静かな 安藤百福(2)商売への興味
安藤百福(3)尽きぬ事業欲 日本一の「丸松」と組む 戦局悪化、蚕糸事業は中止 3月31日 台北市で始めたメリヤス商売は大成功だった。日本内地からいくら製品を仕入れても、間に合わなかった。そこで、翌年の1933年(昭和8年)に、大阪・船場のすぐ隣り、堺筋沿いの唐物町2丁目(現在の久太郎町1丁目辺り)に「日東商会」を設立して、問屋業務を始めた。 取引先は和歌山、大阪、東京などのメリヤスメーカーで、私はどこへでも足を運び、作り方を勉強した。綿、毛、絹の素材の特長や、20番手、30番手といっ 安藤百福(3)尽きぬ事業欲
安藤百福(4)戦時経済 事業のヒントは無限 軍の下請け仕事、災い招く 4月3日 時代は不穏な空気に包まれ始めていた。1938年(昭和13年)に国家総動員法、41年には物資統制令が公布された。もう自由に繊維の仕事に打ち込める状況ではなくなった。 41年12月8日、宣戦の詔書が発布された。その日のことは鮮明に覚えている。私は台湾に出張中で、嘉義市の日本旅館「柳屋」の畳の上にあおむけになり、次々に流れるラジオニュースに耳を傾けていた。 「大本営陸海軍部12月8日午前6時発表。帝国 安藤百福(4)戦時経済
安藤百福(5)終戦 ワナにかけられ拷問 一転、命からがら逃げ切る 4月7日 国から支給された物資を横流ししている人間がいるというので警察に相談したら、私が憲兵に取り調べを受ける羽目になってしまった。憲兵のK伍長と、横流しした者とが裏でつながっていたらしい。そのことに、後になるまで気が付かなかった。 「よく考えておけ」と放り込まれた留置場には6、7人の男たちが肩を寄せ合っていた。おたがい体を伸ばして寝られないほどの狭さだった。我が家との差は身にこたえた。私に対する暴行も、い 安藤百福(5)終戦
安藤百福(6)焦土 土地の買収で再出発 恩人久原房之助氏が助言 4月10日 終戦の翌日、家内の仁子(まさこ)と2人で疎開先の兵庫県上郡から汽車に乗り、大阪に様子を見に出てきた。大阪駅に立つと、御堂筋沿いに焼け残った大ビル、ガスビルなどが見えた。ほかは一面、瓦礫(がれき)の山である。 難波のあたりまで一望でき、奈良の方を見れば生駒や葛城の山々がすぐ近くに映った。難波からさらに南の大国町あたりへ行くと、道端にまだ焼けた遺体が散乱していた。3月13日の大阪大空襲で、私の事業の 安藤百福(6)焦土
安藤百福(7)泉大津に拠点 造兵廠跡 若者集める 餓死者見て、「食」へ転向決意 4月14日 戦災によって、私が取り組んできた事業はすべて灰燼(かいじん)に帰した。何から再出発すればよいのか。とりあえず、久原房之助さんの勧めで土地を買った。 ほかの商品と比べると、土地は安かった。窮乏の時代だったので、食べていくために土地を手放す人が多かったからだ。大阪の中心街、心斎橋の店が1軒5000円で買えた。私は心斎橋のそごう百貨店北側などで、3軒を購入した。このほか御堂筋の梅田新道付近や、いま大阪 安藤百福(7)泉大津に拠点
安藤百福(8)製塩業 「鉄板に海水」の自己流 名古屋に交通学校も設立 4月17日 泉大津で最初に始めたのは、製塩業である。私には塩作りの経験はない。疎開している時に、赤穂の塩田が近くにあって、それをじっくり観察したことがあるが、その程度である。全くの素人だったのに、なぜか自信はあった。 構内には戦災を免れた古い建物が残っていて、それを工場や宿舎に利用した。薄い鉄板が放置されていたので、これを材料にして、自己流の製塩法を考えた。 泉大津の浜一面に、見渡す限り鉄板を並べた景色は壮 安藤百福(8)製塩業
安藤百福(9)梁山泊 "青年隊"と愉快な日々 酔い語りあう生活に陰り 4月21日 日本の復興は食からという思いを実行に移すため、私は泉大津の地に専門家を集めて「国民栄養化学研究所」を設立した。栄養食品を開発しようと考えたのである。 街ではまだ、栄養失調で行き倒れになる人が後を絶たなかった。国から配給される食糧では足りず、闇市(やみいち)が繁盛した。1947年(昭和22年)10月、東京地裁の山口良忠判事はヤミ食糧の購入を潔しとせず、栄養失調で亡くなった。そんな痛ましいニュースが 安藤百福(9)梁山泊
安藤百福(10)巣鴨プリズン 脱税の疑い、2年、戦う 訴え取り下げ、即時放免に 4月24日 泉大津での製塩事業にからんで、警察が周辺の聞き込み捜査を始めた。私は憤慨して、当時警察を統括していた内務省の高官に「私利私欲のためにやっているわけじゃない。捜査をやめさせてくれ」と訴えた。それが警察の耳に入り、かえって心証を悪くしたらしい。 1948年(昭和23年)のクリスマスの夜だった。GHQ(連合国軍総司令部)の大阪軍政部長が転勤するというので、私の経営する貿易会館で府知事の赤間文三さんや財 安藤百福(10)巣鴨プリズン