石毛直道(1)研究の原点 何でも食べる「鉄の胃袋」 戦後食糧難の反動で関心 私の履歴書 11月1日 「ワニ 白い薄切り肉。クセなくうまい」「イモムシの空揚げ カリッとした歯ごたえ。少し苦みとさわやかな香味がある。悪くない味」 今年2月、妻と訪ねた南アフリカ・ボツワナ旅行のメモ書きである。海外に出かけると、食事の内容をカードに記録するのが習慣になっている。カードは少し大きめのB6判サイズ。恩師で国立民族学博物館初代館長の梅棹忠夫さんがベストセラー「知的生産の技術」で紹介したいわゆる京大式カードで 石毛直道(1)研究の原点
石毛直道(2)飢餓への恐怖 一生分食べたサツマイモ 配給だけで過ごした日々 私の履歴書 11月2日 苦手な食材はないが、サツマイモは好んでは食べない。戦後の食糧難の時代に一生分食べたと感じているからだ。 1937年に千葉市で生まれ、戦災や、学校の教師であった父、敏治の転勤で幼少期は県内を転々とした。姉が2人、妹が3人の6人きょうだいである。戦時中は銚子市の母、喜与恵の実家に住んでいた。開戦の日、ラジオの前に座らされ、臨時ニュースを聞かされたのを覚えている。 戦争末期、東京方面を空襲するB29の 石毛直道(2)飢餓への恐怖
石毛直道(3)考古学少年 竪穴住居跡発見に貢献 休日には1人で貝塚巡り 私の履歴書 11月3日 小学生の時は内向的だった。転校を繰りかえし、友達ができなかったことも影響したのだろう。1人で本を読むのが好きだった。といっても、2回焼け出されたため、家にはほとんど本がない。戦後のインフレの時期には、父が校長でも給料は家族が食べていくのがやっとくらいで、本や雑誌を買ってもらえるような境遇ではなかった。 柏の家にあった分厚い3分冊の家庭百科事典を、ルビのある漢字、絵や図を手がかりにして読んだり、友 石毛直道(3)考古学少年
石毛直道(4)青春時代 すれ違ったラブレター 彼女宛てのはずが父親に 私の履歴書 11月4日 生きる意味や将来の進路に思い悩んだり、異性に胸躍らせたりする時期は誰にもあるだろう。思い返せば少し気恥ずかしく、切なくなる青春時代が私にもあった。 石毛直道(4)青春時代
石毛直道(5)卒業論文 稲作伝わる経路で新説 「えらいもの書いた」と評価 私の履歴書 11月5日 考古学にはロマンがあると言われる半面、浮世離れしているという評価もある。1958年に京都大に入学する前、父からは「将来お金もうけができるような道ではないから、専門分野をしっかり学びなさい」と励まされた。 早く本物の学問に触れたいという思いもあり、1回生の教養部時代から考古学教室に出入りした。教室は当時、朝鮮考古学の有光教一教授、シルクロードの仏教遺跡や青銅器研究で知られた樋口隆康助教授、古墳・弥 石毛直道(5)卒業論文
石毛直道(6)探検部に入部 初の海外遠征はトンガ 貝塚調査で民族学に興味 私の履歴書 11月6日 戦後復興から高度成長に向かう昭和30年代の日本では、海外の未踏峰の登山や辺境の地への探検が世間の関心を集めていた。「世界初」などの達成が敗戦から立ち直ってきた人々に夢や自信を与えていたのだと思う。京都大学は戦前から海外で学術探検をしてきた伝統があり、その頃も探検隊や遠征隊を組織した総合調査で実績を上げていた。 入学直後、カラコルム山脈の学術探検の記録映画を見て感動した私は、探検部という学生クラブ 石毛直道(6)探検部に入部
石毛直道(7)ニューギニア 最後の石器時代 求めて 企画や交渉、学び多き探検 私の履歴書 11月7日 京都大探検部で離島調査をしていた水軍派がトンガの次に見据えていたのは、当時西イリアンと呼ばれていた旧オランダ領ニューギニアの中央高地の探検である。近代文明にほとんど触れたことのない部族がいるとされていたが、オランダが作成した航空写真の地図がある程度で情報は極端に少なかった。世界中の探検家が狙っている未探検のフィールドとされていた。 1963年に文学部史学科を卒業し大学院に進んだ私は、この探検を立 石毛直道(7)ニューギニア
石毛直道(8)今西研究会 独創的な仮説、徹底議論 留学辞退、人文研助手に応募 私の履歴書 11月8日 戦後間もなく「世界文化に関する総合研究機関」として設立された京都大人文科学研究所は分野をまたがる学際研究の場として知られていた。東洋史学の貝塚茂樹氏、フランス文学の桑原武夫氏らが所長を務め、歴史や哲学、人類学などでユニークな業績を上げた人材が集まっていた。 探検部顧問で生態学者の今西錦司さんは私の学生時代は人文研の社会人類学分野の教授だった。探検の相談でしばしば訪問していたが、35歳も年上で、当 石毛直道(8)今西研究会
石毛直道(9)梅棹研究室 借り物の知識より持論 知の巨人「もっと牙をむけ」 私の履歴書 11月9日 梅棹忠夫さんとは京都大の学生時代から人文科学研究所、国立民族学博物館と、半世紀以上お付き合いさせていただいた。恩師だが、京大探検部には先生の呼称を使わない伝統があるので、ここでも「さん」と呼ばせていただく。 アジアやアフリカなどで探検や登山を重ね、生物学の基礎の上に動物社会学、文化人類学、情報学、比較文明学の研究をしてきた梅棹さんは専門領域の枠を超えた知の巨人だった。研究者として受けた影響は計り 石毛直道(9)梅棹研究室
石毛直道(10)アフリカ研究 部族家庭に居候し観察 リビア砂漠3200キロ縦断の旅も 私の履歴書 11月10日 私は昔から、一つの分野をずっと掘り下げるより、ある程度の段階まで掘って研究の道筋が見えてきたら、誰も手をつけていないような新分野を探っていく研究スタイルを好んできた。調査研究の対象である地域も同じで、オセアニアの後の1960年代後半、私のフィールドになったのは主にアフリカであった。 京都大はアフリカ社会の人類学的研究を続けていて、今西錦司さんは東アフリカで類人猿と民族の調査をしていた。類人猿の研 石毛直道(10)アフリカ研究