小澤征爾(1)指揮者として 多くの人の力が支えに 今、音楽をやれることに感謝 1月1日 体はふわりと軽かった。舞台の上ではラヴェルのオペラ「こどもと魔法」が進んでいる。舞台下のピットにはサイトウ・キネン・オーケストラのメンバーがいる。 去年の8月。2年ぶりに、僕が総監督を務める長野県松本市の音楽祭「サイトウ・キネン・フェスティバル松本」で指揮をした。色々と大変なこともあったけど、今ここで仲間と音楽をやれている。何とも言えない喜びがどんどん湧き出てきた。音楽家になってよかった。 いつ 小澤征爾(1)指揮者として
小澤征爾(2)満州生まれ 饅頭ほおばり始まる朝 家族での賛美歌、長兄が伴奏 1月3日 僕は1935年9月1日、今の中国瀋陽市、旧満州国奉天に生まれた。おやじの開作は山梨県西八代郡高田村の生まれだ。東京で苦学して歯医者になり長春で開業したが、僕が生まれた頃にはもうやめていた。当時共産革命でできたばかりのソ連の脅威に立ち向かうには、アジアの民族が一つにならなければならないとの信念から、政治活動にのめり込んだ。おやじは百姓の息子なので、田植えでは村中が団結して、協力し合わなければならな 小澤征爾(2)満州生まれ
小澤征爾(3)敗戦の日 父から「好きなことやれ」 空襲警報気にかけず、間一髪 1月4日 おやじは官僚政治や権威主義を心底嫌っていた。理念も持たず中国人を蔑視する政治家や軍人が増えると、手厳しく批判した。1940年には言論雑誌「華北評論」を創刊する。「この戦争は負ける。民衆を敵に回して勝てるはずがない」とおおっぴらに主張し、今度は軍部に目を付けられるようになった。 「華北評論」は検閲で真っ黒に塗りつぶされ、何度も発禁処分を受けた。日中戦争を底なしの泥沼と見たおやじはおふくろと僕たち兄 小澤征爾(3)敗戦の日
小澤征爾(4)自宅にピアノ 横浜―立川、兄がリヤカー 小学生時代、音色にときめく 1月5日 戦時中、上の克己兄貴にアコーディオンを教わっていた僕は、だんだん物足りなくなった。小学校の担任の青木キヨ先生はピアノができる人で、ある日講堂で弾いている時に「触ってもいいよ」と言って隣に座らせてくれた。初めてピアノに触れたのはその時だ。小学校4年の終わり頃だった。 最初の教則本「バイエル」を僕に手ほどきしたのは克己兄貴だと思う。旧制府立二中(現在の都立立川高校)に通っていた兄貴も同じ頃に音楽に目 小澤征爾(4)自宅にピアノ
小澤征爾(5)ラグビー少年 隠れて練習、指の骨折る 「指揮者はどうか」先生が促す 1月6日 成城学園中学に入ってしばらくすると、同級の松尾勝吾(あの新日鉄釜石の松尾雄治の叔父だ)に誘われてラグビーを始め、たちまち夢中になった。ポジションはフォワード。放課後は毎日、夕方遅くまで運動場を走り回った。 豊増昇先生のピアノのレッスンがある日は、泥まみれの格好でお宅へ通う。兄弟弟子にはいま「左手のピアニスト」として活躍する舘野泉がいた。昔から貴公子みたいな男で、しゃれてモダンな奥さんにとても気に 小澤征爾(5)ラグビー少年
小澤征爾(6)指揮者を志す 弾き振り見て「これだ!」 担任が父に太鼓判、弟子入り 1月7日 指のケガでピアノが弾けなくても、音楽はやりたい。中学3年の時、同学年の安生慶と2級下の女の子たちで賛美歌を歌う合唱グループを作った。同学年の清水敬允や山本逸郎、俊夫兄貴、弟のポンも入った。僕が初めて指揮したのはこのグループで、今も「城(しろ)の音(ね)」の名で活動している。 成城に昔からある男声合唱団「コーロ・カステロ」にも顔を出し、黒人霊歌やロシア民謡を歌った。指揮はOBの河津祐光(すけあき) 小澤征爾(6)指揮者を志す
小澤征爾(7)音楽高校へ 猛烈レッスン即座に雷 雑用に忙殺、十二指腸潰瘍に 1月8日 斎藤秀雄先生は指揮の動作を徹底的に分析し、「たたき」「しゃくい」「はねあげ」など7つに分けていた。どの動きもいつ力を抜き、入れるかは厳密に決まっている。それを頭で考えながら指揮なんてできないから、筋肉に全部覚えさせなきゃいけない。 「歩く時に坂を上がろう、角を曲がろう、といちいち考えないだろう?」と先生は言った。動作を体にたたき込むのに歩いている間も電車に乗っている間も腕を振った。変なやつと思わ 小澤征爾(7)音楽高校へ
小澤征爾(8)桐朋短大進学 米楽団の音にブッ飛ぶ 海外で勉強したい…でも留年 1月9日 高校3年の卒業公演で桐朋オーケストラを相手にバッハの「シャコンヌ」を振ることになった。バイオリンの曲を、斎藤秀雄先生がオーケストラ用に編曲したものだ。十数分の曲を先生は半年かけて僕に教えた。 バッハの原典にはテンポの指定がない。音楽記号も書かれていない。でも先生は楽譜を読み尽くし、音楽を細かく構築した。しかも「一番音域が広いここが音楽の頂点で」というようにすべて言葉で説明できた。後年、ベルリンで 小澤征爾(8)桐朋短大進学
小澤征爾(9)1959年2月 縁に助けられ日本たつ 反対した師匠から「はなむけ」 1月10日 外国行きの見通しが立たず、僕はすっかり意気消沈していた。あれは桐朋恒例の北軽井沢での夏合宿の後だ。軽井沢の駅の待合室で成城の同級生、チコこと水野ルミ子にばったり会った。「征爾、何落ち込んだ顔してるの」。外国で音楽を勉強したいが手立ても金もない、と説明したら「うちの父に話してみる?」という。チコのおやじは水野成夫(しげお)さんといって、文化放送やフジテレビの社長だった。 その足でチコの別荘へ行き、 小澤征爾(9)1959年2月
小澤征爾(10)淡路山丸 船員と投合、愉快な船旅 スクーター整備、暇見て訓練 1月11日 列車がとうとう動き出し、僕は3段ベッドの一番上に寝っ転がった。さっきまで仲間が大勢いたのに今は俊夫兄貴と二人きりだ。さすがに少ししんみりした。翌日、京都に着き、江戸英雄さんに「泊まっていけ」と言われていた日本旅館「土井」に一泊した。 僕が生きて帰れないだろうと思って、最後のプレゼントのつもりだったのかもしれない。ずいぶん立派な旅館だった。一晩に2組しか泊めないという。兄貴と懐石料理を食べて檜(ひ 小澤征爾(10)淡路山丸